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Art and design of Rut Bryk
ルート・ブリュークを巡って【後編】

A Scenery of Modern Deign

ルート・ブリュークを巡って後編

ヘルシンキ市庁舎ホールの壁面作品「City in the Sun」(1975)のディテール。幅4790㎜×高さ2960㎜の大作の前を今日も多くの市民が行き交う。

創作活動

アラビア社はヘルシンキ中心部から北東約6キロに位置し、都市の喧噪からはすでに離れているが、上層階のアートデパートメントのフロアはさらに静かで、窓からは青空、そして海の気配……とても創作に適した環境にある。しかも工場と一体なのでアーティストにとって必要な材料がすぐに手配できる。

ルート・ブリュークのカラフルなタイルもまた、工場の実験室で開発された200種類もの釉薬の調合で生まれた。焼成後の発色は記憶と経験でしか分からないものだが、彼女はその釉薬すべてを使いこなしたという。
長女のマーリアが保存しているノートには、数十年にわたって母の作品に使われた色を示す番号や記号がびっしりと並んでいる。
当時、アラビアの最上階9階のスタジオで、ルート・ブリュークはアシスタントとともに、床一面に並べたタイルの構成を高い脚立に上って俯瞰し、1ピース1ピース配置し置き換え、また俯瞰しては置き換えるという作業をしていたという。

ルート・ブリュークを巡って後編

集大成とも言える「Ice Flow」(フィンランド大統領公邸壁面作品。1987−91)は、人が一生のうちに出会う──あるいは会えないこの世の自然と奇跡をイメージさせる。高さ3700㎜、総面積30㎡。

抽象表現にみなぎる詩情

1980年代、抽象と具象の境界を取り払ったルート・ブリュークの表現は成熟期を迎え、ひとつの作品中に相対するイメージ──明と暗、静と動、温かさと冷たさの共存や共鳴を彷彿とさせ、より一層詩情を帯びてくる。
集大成とも言える「Ice Flow」(フィンランド大統領公邸壁面作品)は、人が一生のうちに出会う──あるいは出会うことのない、この世の自然と奇跡をイメージさせ、見る者に驚きと同時に懐かしさを抱かせる力がみなぎっている。制作に取りかかったのは、夫タピオ・ウィルッカラを亡くした直後だった。
「母は創作することで生きる気力を保っていました。そういう意味でこの作品は父に捧げられたものとも言えるでしょう」(マーリア)。

80年代、西ヨーロッパは100年来の悲願とも言える「ひとつのヨーロッパ」となるべく胎動していた。89年に冷戦が終結し、91年にソ連邦が崩壊、93年には悲願のEU発足……90年代の欧州不況の中、フィンランドは社会構造の転換に成功し、フィニッシュデザインの製品価値だけでなく著作物としての付加価値を世界の市場に認知させた。

建築家で著述家のユハニ・パラスマー(*4)は、フィンランドのある世代のアーティストやデザイナーを指して「第二次大戦前の数年間と終戦直後は、創作やデザインすることは“職業”というよりも“生き方に対する姿勢”というふうにとらえていた」と述べている。そうしたことについて、ルート・ブリュークはどう考えていたのだろう?
西欧ほどではないにしても、まだ階級というものが残る時代に知的階級に生まれ、両親の離婚を経験し、戦争の最中に学生時代を過ごし、やがて敗戦。
戦後、アーティストとして人生を歩み始めた彼女は、歯を食いしばるようなことはあったのだろうか? 女性ゆえの不本意な思いはしただろうか? 変わりゆくヨーロッパと、激変するフィンランドをどのように見つめていたのだろう? それをマーリアとの数日間の会話から推し量ることは出来ない。私の手元にあるのは、希有な才能に恵まれた女性が、素晴らしいパートナーを得て朗らかに創造の翼を広げ飛翔し、去って行った軌跡のメモだけだ。

ルート・ブリュークを巡って後編

ルート・ブリュークを巡って後編

交響曲の境地

人は頭の中に美しいイメージを描くことはできる。しかしそれをかたちにすることは難しい。鍵になるのは才能ではなく、もっと卑近な資質、根気だと思う。

ルート・ブリュークの作品であれば、まず、どのくらいの寸法のピースがいくつ必要か、そして、それは何パターン揃えるべきか、色彩のバリエーションをどの範囲まで用意しておくか、テクスチュアのバリエーションは? 釉薬の組み合わせは? 必要なリストは100パターン? 200パターン?──素材を用意するだけでも、こうした地味で細かい、クリエイティブとはおよそ遠い、気の遠くなるような作業ひとつひとつの確認と積み重ねが必要だろう。
そこからさらに、構成上すべてを調和させるための実際に身体と腕と指を使っての試行錯誤……。こうした迂遠な作業ひとつひとつを淡々とたゆまず倦まずこなして、ようやく頭に描いたイメージが現実となる。

彼女の晩年の作品が放つオーラは見る人の思考を止める。見ているうちに何千ものセラミックピースの集合体の緻密さ、計算された造形がようやく思考を促す。遅れて着いたコンサートホールで、防音扉を開けてあふれ出した交響曲に包まれるような感覚。見る人をフワっと圧倒する感じ──晩年のルート・ブリュークがたどりついた表現の境地だと思う。(H.W.)
〈了〉

ルート・ブリュークを巡って後編

(*4)Juhani Pallasmaa(1936-)建築家 ヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)教授。ワシントン大学(米・セントルイス)客員教授。イリノイ大学教授。1970年代より現在までフィンランド国内および欧米で多くの公共建築を手掛ける。建築、美術評論など著書多数。文中の記述は1986年、AMOS ANDERSON ART MUSEUMで開催されたルート・ブリューク展の図録に収録されていたもの。

【参考】ウィルッカラ・ブリューク財団のサイト
http://www.wirkkalabryk.fi/2Wirkkala_-_Bryk_e/Wirkkala_Bryk.html

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