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Art and design of Rut Byrk
ルート・ブリュークを巡って【前編】

A Scenery of Modern Deign

ルート・ブリュークを巡って【前編】

Butterflies, 1957, 510×380/色彩の豊かさと繊細な描写に思わず見入る。2007年秋にデザインミュージアム(ヘルシンキ)で開催されたルート・ブリューク回顧展では1940年代から90年代までの作品が網羅的に展示された。

初めて作品を目にした時から、いつか日本に呼びたい、何かのかたちで紹介したいと思いながら何年も経ってしまっている作家がいる。2007年秋、ヘルシンキのナショナルデザインミュージアムでの回顧展で出会ったルート・ブリューク(Rut Bryk 1916-1999)もそんなひとり、フィンランドを代表するセラミックアーティストで1940年代から20世紀を通して、その作風や表現の変化を自在に創作に反映させつつ、小さいものはテーブルウェアから大きなものは公共施設の壁面レリーフまで、実にさまざまな作品をカラフルに詩的にたゆまず生み出し続けた作家である。

ルート・ブリュークを巡って【前編】

デザインミュージアム(ヘルシンキ)。1873年創設。7万5000ものアプライドアートを幅広く収集(保存・研究)展示している。

日本では、彼女の夫であるデザイナー、タピオ・ウィルッカラ(Tapio Wirkkala 1915-1985)がよく知られているが、「父は母を女性としてはもちろんアーティストとして、まさに崇拝していました」(マーリア・ウィルッカラ)という。 ――そう、ルート・ブリュークを日本で紹介したい、企画実現のためには千里の道も一歩から、と2010年にはウィルッカラ&ブリューク夫妻の長女であり現在活躍するインスタレーションアーティストであるマーリアにも会い、彼女が両親や兄のサミと暮らしたエスポー市の住まい(現在はマーリア家族の住まい)も訪問し、彼女と一緒にヘルシンキ市庁舎や、郊外マンティニエミの大統領公邸にも行き、壁面レリーフ作品などを撮影したのだった。 しかし、未だ日本では実現できないままのルート・ブリューク作品展……しかしそれは同時に、ワクワクするような企画が眠っている、ということでもあって、ここではその夢の本編の序章として作家と作品に触れてみたい。

ルート・ブリュークを巡って【前編】

Ashtray, 1968-75(ルート・ブリューク回顧展展示)

生い立ち、少女時代

ルート・ブリュークは1916年、オーストリア人の父、フェリックス(Felix Bryk 1882-1957)とフィンランド人の母、アイノ(Aino Bryk (Makinen)1881-1955)の間に生まれた。父フェリックスはスウェーデン国立生物学研修所に勤務する生物学者で、ルートは幼少期を彼の勤務地であるスウェーデンで過ごした。 「母と家族は長い夏の休暇をフィンランドのカレリア地方のラドガ湖畔で過ごしました。生物学者であった祖父は、趣味と研究をかねて休暇中も湖畔で昆虫採集をしていて、母も祖父を手伝ったり話を聞いたりして、生き物への自然な興味を育んだのでしょう。後年、昆虫はsカウ品のモチーフにもなっています。 母のミドルネームはリネア(Linnea)ですが、これは生物学者だった祖父が敬愛するカール・フォン・リンネから取って命名したそうです」(マーリア)。 リネアのミドルネームを授けられたルート・ブリュークは、生涯を通して多くの作品に植物や昆虫を含む生物全般のモチーフを取り入れながら、宗教から現代思想へとつながる幅広いイマジネーションを描き続けた。 「祖父とは対照的に、祖母は芸術家の家系の出身でした。ナショナルロマンティシズム期の画家ペッカ・ハロネン(※1)は従兄弟です」(同)。 知的芸術的エリート過程に生まれたルート・ブリュークだが、その少女時代は幸福に包まれていたとは言えなかったようだ。 「母がまだ少女の頃、祖父母は離婚しました。これは当時としては大変なことだったのです。同じ頃に母の妹も亡くなったと聞いています。こうしたことが母の心に深い悲しみを残したようです。母は祖母と一緒にフィンランドで暮らすことになりました」(同)

ルート・ブリュークを巡って【前編】

ルート・ブリューク、タピオ・ウィルッカラ一家が暮らした家には現在は長女マーリア家族が暮らす。「玄関にある母の蝶の作品は、以前はモルタル塀の中にはめ込まれていたものですが、塀を改修する際に掘削して、今のように木壁に掛けているのです」(マーリア)。

アラビア窯へ

1939年、ルート・ブリュークはヘルシンキ中央美術工芸学校(※2)のグラフィックデザイン科を卒業した後、工業製品のプリント生地やルイユラグ(フィンランドの伝統織物)などのテキスタイルデザインを手掛けていたという。 グラフィックのセンスが要求される仕事で彼女の才能は生かされていただろうが、42年に当時アラビア窯のアートディレクターだったクルト・エクホルム(※3)の招きで同社のアートデパートメント(美術部門)に入ったことで、それまで抑制されていた彫刻的、建築的才能が開花した。 これは想像だが、そのずっと以前からルート・ブリュークの中にはモチーフをイメージへと昇華させた立体的に浮かび上がらせる欲求と道筋が備わっていたのだと思う。実際、彼女は大学入学前に建築の基礎を学び、建築科を受験し合格もしていたというのだから……。(H.W.) 〈続く〉 ルート・ブリュークを巡って【前編】 (※1)Pekka Halonen(1865-1933)フィンランドのナショナルロマンティシズムの代表的な画家。フィンランドでは1890年代からロシアから独立を果たす1917年頃まで、民族意識の高まりによって多くの芸術作品が生まれた。 (※2)Central School of Arts and Crafts in Helsinki /後にヘルシンキ芸術大学に統合。現在アアルト大学。 (※3)Kurt Ekholm(1907-1975)1928年から31年までスウェーデン、ストックホルムで学び、卒業後アラビア社のメンバーとなる。1932年、アートディレクターに就任。デザイナーが自由に創作活動を行える体制「アートデパートメント」を設立した。アラビアの最重要人物のひとり。

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