Column
アーティスト
ギンタラス・カロサス
リトアニア初の野外現代美術館
「ユーロ・パーク」創設者
Thursday 10, July, 2014
person
1980年代後半のリトアニア、と言うとどんなイメージを抱くだろう? まだベルリンの壁はあり、バルト三国はソ連邦に組み込まれていた時代、鉄のカーテンの中に表現の自由はなく、変転するソ連の政策に翻弄され、疲弊して……、そんなイメージがまったく見当違いだったことを2013年に首都ヴィリニュスでアーティスト、ギンタラス・カロサスに出会って知った。
ヴィリニュスの北約20キロ、こんもりとした森林の中にリトアニア初の野外現代美術館「ユーロ・パーク」はある。1991年に55ヘクタールの敷地に第1作が設置され、現在は世界30カ国から120点もの大型彫刻作品が集うこの場所は、1987年、当時ヴィリニュス芸術大学の彫刻科の学生だったカロサスが斧を振るって森を拓くことから始まった。
「困難の多い現代社会において、人々が自然な感性や本来の安らぎを取り戻す場所を作ろうと考えた」(カロサス)という美術館について話を聞いた。
ソ連崩壊前夜
――87年、国内はどんな雰囲気でしたか?
リトアニアはまさにクリエイティブなエネルギーで満ちていました。ソ連から再独立を勝ち取ることはリトアニア国民の悲願で、家の外でもそうした話題を口にできたのです。そのポジティブな機運がこのミュージアム建設を後押ししてくれたのです。
――学生だったあなたが、建設のための用地や資金をどのようにして入手したのですか?
当時はソ連邦下であったため、土地はすべて州の所有でした。まず私ができることは地域の有力者を訪ねて、公園を作るための静かで人の手の加えられていない森を提供してほしいと頼むことでした。 最初の頃は文字通り、私ひとりの労力と構想だけで……斧、チェーンソーを使って森を切り拓き、整地していったのです。スポンサーは両親でした。
開館、そして運営……
――90年にリトアニアは再独立を果たし、ミュージアムはその5年後の1995年のオープンですよね?
最初の作品は1991年に設置されました。財団もこの年に設立しました。初めて国際シンポジウムが開催されたのが93年。95年には、ある程度認知され来訪者が訪れるようになったのです。現在年間の来場者数は2万5000人から6万5000人です。
――現在、敷地の所有者は誰なのですか?
99年に、3分の1は私が所有しヨーロッパ・パークのNPO組織に貸与するかたちに、あとの3分の2は州の所有でヨーロッパ・パークNPO組織に更新可能な限りの無期限貸与ということになっています。
――運営は順調ですか? 資金的な助成などはあるのでしょうか……
財団設立当初は何もかも自費でした。93年にヨーロッパ・パークのNPO組織ができると富士フイルム・リトアニアが最初のスポンサーに、次いでリトアニアの携帯電話会社Comlietがスポンサーになってくれました。 それに外国の在リトアニア大使館が、自国のアーティストの参加について色々と支援をしてくれた。
また、時にはアーティストの国の企業からの支援もありました。例えば、日本のアーティスト、イハラ・ヨシタダはトヨタ・リトアニアから支援を受けることができました。 現在、私たちにはメインスポンサーはいません。来場者がメインスポンサーと言っていいでしょう。来場チケットの売り上げや、イベント参加費用が運営資金となっています。
当初は環境整備にもそんなに費用がかからず、スタッフの給料や税金の支払いも楽な方でした。現在はランドスケープのメンテナンスや野外の作品の修復、10人のスタッフの給与や税金などが、厳しくのしかかっています。 毎年、州のさまざまな文化助成金を申請していますが、州の助成はごく限られたものなのです。
初の国際シンポジウム
――外国のアーティストとの実質的な作品出展の交渉は93年のシンポジウムから始まったのですか?
そうです。さまざまな国のアーティストとアーティスト協会に国際シンポジウムの招待状を送って参加を呼びかけました。 ギリシャ、アメリカ合衆国、ペルー、ハンガリー、フィンランド、アルメニア、リトアニアから14組のアーティストの参加と作品の出展がありました。
――シンポジウムで印象深かったエピソードなどは?
世界各地のアーティストとのやり取りはとても興味深いものでした。このシンポジウムへの参加がリトアニアと関係を持つ最初の出来事、という国がいくつもあった。ペルーからの参加アーティストは、多分、最初にリトアニアに来たペルー人だったと思いますよ。 日本人アーティストとの協働も楽しかったです。ここでの彼らの作品が、日本文化の不思議な魅力といったものを紹介していると思います。
――ヨーロッパ・パーク設立と併せて世界各地の野外博物館を見学されたようですが……
はい、日本にも行きました。箱根の彫刻の森美術館を訪れたのは95年で日本は雨期(梅雨)でした。
思い出深いです。温かく迎えてもらいましたから。
革新の瞬間に出合える森
――今後の展開について聞かせてください。それと日本の読者にメッセージを。
ほぼ毎年新しい彫刻が設置されますから、既存の作品のいくつかはミュージアム全体の環境を成長させるよりよい場所に移動させるのです。ランドスケープデザインは、新たな展開に合わせて常に変容していきます。
私は、90年にリトアニアが再独立を果たしたことは、革新的な思想が実現可能だということの証明となったと考えています。鉄のカーテンが崩壊し、海外のアーティストとの密な交流が生まれました。 ヨーロッパ・パークには、リトアニアの20世紀末期と21世紀初期の彫刻のそれぞれの違った革新の瞬間が反映されていると思います。
ここで行われたいくつかのプロジェクトはリトアニア初の試みでした。施設自体が、最初のランドスケープ作品でしたし、国際彫刻シンポジウムも初めてのことでした。
私たちには、リトアニアの地域特有の作品を最初に発信しているという自負があります。日本の皆さんも是非ヨーロッパ・パークにお越しください。
(H.W.)
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