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Column > goods/book > May,2021

【Living on Reading 読み暮らす人のための本の話】
あふるる

いつまでも曇ることのない幸福なイメージ

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☁☁

写真集のページを繰ると疲れた頭が休まり、作家の目に映った世界にすっと引き込まれることがある。そして、ふと個人的な思い出がリアルに立ち上る……。それは、その場所を知っている、というようなこととは全然違う、写真の中の輝きが見る人の心の底に潜む懐かしさにそっと重なるような不思議な既視感。
なぜ未知の瞬間の輝きに個人的な郷愁が重なるのか? その理由を具体的に挙げることはできそうだけど、しない。ただ、その理由こそが優れた写真の特徴なのだと思う。
『あふるる』は、そんな輝きを湛えた写真集で、かくたみほの目に映った風景を見て、私は(さて、ここからが本文)……

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それは、小さな男の子の目に映った海。風が爽やかで大きく息を吸うと微かに潮の匂いがして、波頭がきらめく海。

時々思い出す海がある。
それは、私の見た海ではなくて、小さな男の子の目を通して私の前に広がる海だ。
笑うと目尻に感じの良いシワのできる横顔が、ふわりとタバコの煙を吐きながら話した、ある晴れた日の青空のかけらのような思い出。私の大好きな話。

ビートルズをこよなく愛し、座禅とコンピューターの基板回路設計が趣味というその人は、どこまでも穏やかな雰囲気とは裏腹に大型バイクに乗る人でもあり、高速で走る楽しさを「信じて走る」と言って笑っていた。

運転が確かでも、整備が万全でも事故は起きるんだよ。高速道路を走っていて急に雨が降り出したりすると、路面標識ってあるよね、あれはすごく滑るし、小さな何か、例えば小石を踏んでも転倒の原因になる。だから普通に考えたらバイクで100キロ出して走るなんてただ危ないだけ。なんで? うーん、そう聞かれても困るけど……、まあ、信じて走るんだよ。何も落ちてません、滑りません。ただ、信じて走る。

そして、「思い出すと本当にゾッとするんだけど、信じらんないのが、オレの親父だよ……」と続けたのだった。
聞けば、そもそも彼のお父さんという人がバイク好きで、よく小学生の彼を後ろに乗せて高速を飛ばしたそうだ。晴れた週末の朝など急に、行くぞ、と彼に子ども用のヘルメットを被らせ、しっかりつかまってろよと言って横浜新道を走って海へ。その海でふたりは何をするわけでもなく、お父さんは浜辺で波を眺め、彼は磯遊びをし、日が暮れる前にまた高速を飛ばして家へ帰る。

行きはいいんだけど、帰りがね。子どもだから眠くなっちゃう。しっかりつかまってなきゃいけないのは分かっているんだけど、眠くなると腕がほどけてくる。そうすると親父が怒るんだよ。コラッ、つかまってろ、って。コラッ、じゃねぇだろ。子ども後ろに乗せて100キロで走ってだぜ。

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その海でふたりは何をするわけでもなく、お父さんは浜辺で波を眺め、彼は磯遊びをし、日が暮れる前にまた高速を飛ばして家へ帰る。

100キロ、には続きがあって、ここからが私の好きな話。

ある日、いつものように親父とバイクで出掛けたんだ。駐車場から海岸に降りていったら、女の人がふたりいるんだよ。ふたりともニコニコしていて、親父も、やぁ、なんて感じで。ふたりはオレを見て、Hさんの子? こんにちは、私たち、お父さんの会社のお友だちよ、って。で、なぜかオレは片方の女の人とお喋りでもしていましょうね、ってことになって、その辺の喫茶店に連れて行かれて、お喋りしてたわけ。何年生? とか、学校は楽しい? とか聞かれてさ。
しばらくして浜辺に戻ると、親父と一緒にいた女の人の様子が変なの。その人、オレのそばに来てしゃがんで、顔をじっーと見て「可愛い」って、頭を撫でて「Hさんにそっくり……」。笑顔で、涙をポロポロッとこぼして。

海に行く日はいつもそうだったんだけど、その日もいい天気でね。季節はいつだったんだろうなぁ。日が傾くまで浜辺を散歩したから、真夏ではなかったはず。で、帰る時、親父のヤツ、オレにヘルメットを被せて、しっかりつかまってろよ、眠っちゃだめだぞって。それで「……あのな、今日のことは、お母さんには内緒だぞ」。今日のこと、って、どこからどこまでだよ!
なぁに、それ、本当?  ホント、こんな話、作らないよ。
あなたのお父さん、面白い! 全然、面白くないぜ。

それにしても、と思うのだ。その「内緒の日」は別として、しばしば小さな息子を乗せて海まで走ったというお父さん、多分まだ三十歳代前半。何を思って走り、海を眺めていたんだろう。
そして、恐ろしいことに私がこの話を彼から聞いたのがすでに30年も前のことなのだ。私はまだ大学生で、彼も二十歳代。100キロで走って、息子を盾に(ダシに?)恋人(一歩手前?)に別れ話をしに行った頃のお父さんよりもうんと若かった。だから私たちにとって、この話は、困った大人たち、の話で、そこが笑えるところだったのに。
あの頃、人生がこんなにあっと言う間に過ぎていくとは思いもしなかった。

大学をドロップアウトして久しく、定職もないのに、時代のせいかお金に困っているふうだったことは一度もなくて、苦しい時は分厚い本を読む、と平然としていた彼。待ち合わせに1時間半も遅れた私に、オレはここで夕日を見るのかと思ったよ、と笑った彼。
いつ呼び出しても前からの約束のように普通に現れ、時には先に着いていて、またオレの勝ち、と言って指をバキッと鳴らして戯けた。

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公園通りのボサノヴァ、富ヶ谷の歩道橋から見た月、表参道に降る雪、同潤会アパートの桜、いくつもの週末、いくつもの季節。
不安定で、妙にお喋りだったり急に黙り込んだりがしょっちゅうだった私の次の言葉を、タバコの煙を眺めながら待っていた完璧な横顔。

彼は元気かな、と思う。今もバイクで走っているのだろうか。人生に悪いことは起きないと信じて、涼しい顔をして。
そんなふうに思う時、私が決して慣れることのなかったエンジンの爆音が遠ざかり、海が広がる。

それは、小さな男の子の目に映った海。風が爽やかで大きく息を吸うと微かに潮の匂いがして、波頭がきらめく海。そのずっと先、海が空とひとつになるあたりは眩しくて長く見つめていられない。空高くからまばらに海鳥の声が聞こえ、うつむくと、砂を踏みしめる音と、その風景の清々しさを持てあました大人たちの言葉が切れ切れに聞こえる、そういう海。

笑いを含んだ静かな声が重なる海。
青空のかけらのような思い出の数々。ひとつひとつが、いつまでも曇ることのない幸福なイメージだ。(W.H.)

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とどまらずにあふれるように作品制作をしていきたいという思いを込めたタイトルは1冊ずつ、写真家の手書き。AD:佐々木暁・264mm×264mm・カラー64p・クロス張り上製本・1000部限定エディションナンバー付。Web Shop

 

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